徒然日記

大竹達也のブログです。Facebookよりもちょっと日常的な感じの。

今日は朝から雨が降っていたので、傘を差して出掛けた。

 

駅前の青山で500円のセールで買った傘で、最初は紳士服の青山のちゃんとした傘が、今なら500円で買えてしまったと、もの凄く徳をした気分になっていたけど、何回か使っただけですぐに骨組みが折れた。

今朝はそれが更にちょっと酷く曲がっていた。

青山にしてやられた気分になって、そろそろ梅雨入りもするし、多少高くても気分の上がる傘を買おうと決意しながら出社した。

 

 

帰り道、駅を出て信号待ちをしていたら、雨の中小さいお子さんを抱いた女性が傘を差さずに待っていた。

子供が濡れていて可哀想だったので、差している傘を貸して、自分は鞄に常備している折り畳みを差した。

 

「お近くですか」「ええそうです」

程度の言葉を交わしたが、相手がなんとも申し訳無さそうに、断り所を見失ったようにしていたので、

「良ければその傘、差し上げます。折れてしまって買い換えようと思っていたので」

といってあげてきてしまった。

 

新しい傘も買えるし、良い事をしたとも思うけれど、どうしてもモヤモヤした気持ちでいる。

「良い人でいたい」という欲に気持ち悪さを覚えるというか。

良い人であることを求めたい自分と偽善的な振る舞いを赦せない自分が同居している感じがモヤモヤしているんだろうと思う。

 

お子さん抱いたお母さんが雨に濡れていて、自分が傘2本持っていたら渡して然るべきだろうと思うけど、見て見ぬふりをする方が自然なような気もする。

そっちが自然なのを理解していながら、半ば無理をして当然の如く振る舞おうとしているのが気持ち悪い。みたいな。

「そりゃ、人が困ってたら助けてあげるでしょ普通」って言って悦に浸りたい自分が気持ち悪い。みたいな。

 

「こうあるべき」という理想論が、真に自分に合っていないような気がする。

きっと親から植え付けられた理想論との葛藤なんだろうな。最近そんなことをよく思う。

自分自身の主張や感性を押し殺してきたツケが回ったということでもあり、自分を大切にすることを覚えたということでもあるとも思っている。

 

傘の話からどんどんオカシな話に転がってしまったね

これから梅雨だし、気分の上がる傘に巡り会えますように。